信念を貫いた社長と杜氏の酒造り 木下酒造の道のり

京丹後市久美浜町にある木下酒造有限会社が造るお酒は、「玉川」の名で親しまれる。創業の地に”玉のように美しい川”が流れていたことがその名の由来となっている。天保13年(1842年)に創業した歴史ある木下酒造では、14年前よりイギリス人のフィリップ・ハーパーさんが杜氏として酒造りの舵を取る。11代目蔵元である社長の木下善人さんは、「ハーパーとの出会いと、貫く信念があったからこそ今の玉川がある」と語る。どのような想いで酒造りを続けてきたのか、木下さんにお話を伺った。

酒瓶を洗う作業
酒瓶を洗う作業。お酒を詰める前の大切な工程。

木下社長とハーパーさんの出会い

「私がこの蔵を継いだ時代は、酒の安売り合戦が起きていた時でね。安くしても売れないし、生産するだけ赤字だからと、諦めて蔵を閉めようと思っていたんです」。そんなとき、懇意にしている醸造問屋から「あなたは良いのかも知れないが、ここで廃業してしまっては先代が悲しむよ。ぜひ会ってみてほしい人がいる」と紹介を受けたのがハーパーさんだった。初めて二人が会った時、ハーパーさんは「こんなに丁寧に造られていて美味しい日本酒が、どうして安売りされているのか理解が出来ない。私は日本酒の未来を信じている」と話した。その言葉に木下さんは情熱と希望を感じ、「この人となら、もう一度酒造りができる」と心を新たにした。

さっそく、木下社長はハーパーさんを杜氏として迎え入れた。当時、業界では日本酒の収益減をカバーするために梅酒などのリキュールや焼酎を売る蔵が増えていたが、木下酒造では「私たちが本当に造りたい日本酒一本だけでいこう」と団結。ハーパーさんは「美味しいと思うものだけ」を追求し、多くのお酒を提案し形にした。流行に沿わない味に見向きもされない時代もあった。不安や困難に直面するたびに、木下社長だけでは決断出来なかったこと、ハーパーさんだけでは実現できなかったことをお互いに補い合いながら、二人が目指す「玉川」を造り続けてきた。

木下酒造に杜氏としてやってきたハーパーさん

杜氏のハーパーさん。オックスフォード大学を卒業後、英語教師として来日。友人と飲み歩くのを楽しんでいるうちに日本酒の美味しさに魅了され、教師をやめて奈良の酒蔵に10年、大阪の酒蔵に5年、茨城の酒蔵に1年務めた後、木下酒造に杜氏としてやってきた。

100人にひとりのファンのために

木下酒造のお酒はずっしり重い、濃い味が特徴で、近年好まれている”フルーティで飲みやすいお酒”とは路線が違うものだ。味に関しても、流行を追う新しさではなく、あくまでも自分たちが表現したい味を追求することを貫いてきた。「玉川の酒は、決して万人受けするものではないと思っています。100人に1人が美味いと言ってくれるのであればその人のために酒を造る。それを継続しているうちに、玉川の名がじわじわと広がり、ファンになってくださる方も増えていきました」と、木下さん。廃業さえ考えていた木下酒造は、気が付けば当時の倍以上のお酒を生産するほどに成長していた。海外にもファンが増え、今でも玉川の輪は広がりを見せている。

温度変化による味わいの多様さも特徴の一つ。高温な燗から冷めていくまでの色々な温度帯で、味わいの変化を楽しめる。自分の好み、料理との相性、はたまたその時の気分で、「これが好き」という直感と出会ってほしい。「”酔い”を通して、飲む人がさまざまな喜怒哀楽とともに良い時間を過ごしてくれる。その一端を担うことができるのであれば、この上なく幸せなことです」と、木下さん。

慣れた手つきでラベル張りを行なう様子

慣れた手つきでラベル張りを行なう様子
色々なお料理に合う「玉川」

「色々なお料理と合わせて、その味わいの変化を楽しんで下さい」

出会いに恵まれた玉川。そして、次の世代へ。

ハーパーさんとの出会いはもちろんのこと、一生懸命支えてくれた造り手、毎日脚が棒になるまで自社を売り込んでくれた営業、そして玉川を手に取ってくださるお客様、数々の出会いに感謝し、感慨深く振り返る木下さん。一言、「みんなで造ってきた玉川なんです」と満面の笑みを見せた。

そして、玉川は次世代へと引き継がれていく。木下さんの長男の光さんは現在、蔵の仕事や営業の仕事をしながら会社全体の動きを学び、身に付けている。「息子に社長を引き継ぐ頃、彼は相方となる杜氏を見つけなければならない。それが一番大変なことだと思うね」。木下さんとハーパーさんがそうだったように、自分たちの道を見つけて進んでいくであろう次の世代の木下酒造も、今から楽しみだ。

長男の光さんと社長の木下さん

長男の光さん。玉川の酒造りは次の世代へ引き継がれていく。

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